新田義雄さんが天に召される直前、最後の日曜日となった五月八日。いつものように壮年Bクラスに出席した新田さんは、分級の冒頭で突然、「わたしはヨハネの黙示録が大好きです。特に21章が…」と語ったそうです。誰かが「神さまと人が一緒になっているありさまは、まるでエデンの園が回復されたみたいですね」と言うと、新田さんはとても豊かな表情を浮かべてにっこりされた。まるでそこに神といるかのように…。同じクラスの山本輝義さんが告別式の追想の言葉で、そう紹介してくださいました。
わたしたちは、命の始まりと最期を、自分で選ぶことができません。神がお決めになった「時」をただ受けるほかない。ある人の場合には、近づく最期に向けて少しずつ心の準備が可能なこともあるけれど、ある人の場合には、突然断ち切られるように最期を迎えなければならないこともある。命のありようは人それぞれです。しかし、聖書が一つはっきりと証言していることがあります。それは、「初めであり、終わりである神が、わたしの命の始まりと終わりに慈しみをもって立っておられる」ということです。
また、アインシュタインは「無限なものが二つある。宇宙と人間の愚かさ。前者については、断言できないが…」と語りましたが、無限の愚かさを抱えた人類はこれからどうなっていくのか、どこに向かうのか。大きな不安を覚えざるをえないわたしたちに、やはり聖書が明確に証言していること。それは「人間の愚かさに対し、神の愛が最終的に勝利したもう」という希望です。その希望を「黙示」という独特の方法で描き、語ったのが「ヨハネの黙示録」であり、「その勝利を早く来たらせたまえ。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という祈りをもって、新約聖書は結ばれているのです。