私たちは「旧約聖書」と「新約聖書」は連続した「一冊の聖書」と受けていますが、主イエスの時代、決してそれは当たり前のことではありませんでした。というのも、主イエスの生き方と教えがあまりに衝撃的で規格外で、「旧約聖書」の枠に収まりきらず、むしろ破壊する危険なものに思えたからです。
「いったい、この方はどなたなのか?」
主イエスが無抵抗で十字架で処刑された時、多くのユダヤ人はその無様な姿をあざ笑いましたが、弟子たちは「旧約聖書」を最初から最後まで読み直し、「イエスがどういう方であるのか」を一生懸命に聞き取り直していきました。
ただ弟子たちが最後まで葛藤したのが、イエスは「割礼を受けたユダヤ人の救世主なのか」「割礼なき異邦人の救世主でもあるのか」という点です。
今の私たちは当然「すべての民の救世主でしょ!」ですが、それまで長い間割礼を受けたユダヤ人として「選ばれし神の民」の誇りを受け継いできたペトロたちにとって、「選ばれし神の民」のしるし(割礼)の意義を失うことは、自分たちの存在意義にかかわる大問題だったのです。
教会はどうやってその分厚い大きな壁を乗り越えたのか。
聖霊の働きです。
目の前で「割礼なき異邦人」に聖霊が注がれるのを見た時(使徒10・44以下)、ペトロたち教会は、主イエスが十字架で成し遂げられた御業がユダヤ人と異邦人の隔ての壁(敵意)を壊し、教会を「新しい人」に造り上げる愛の御業であると知らされたのでした。
今日も教会は聖霊の導きに従い「新しい人」として造り上げられる招きを受けています。「新しい人」とはどんな人か。聖霊の招きを受けていきましょう。