毎日曜夕方四時から三十分、礼拝堂で「聖書輪読と黙想」が行われています。聖書を一章ごと輪読し、しばし黙想するだけの小さな小さな集まりです。日曜日の一日を感謝して、その最後に聖書に静かに聴き、御言葉を受け取って家路につきたいという有志の思いで始まりました。
その小さな集まりに身を置いていると、礼拝堂は何のためにあるのかを考えさせられます。幸いだけでなく不条理な苦難あふれる世界のただ中で、聖書の十字架のキリストに思いを集中させ「イエス・キリストの名で立つ!」の信仰をいただき、各々の暮らしに遣わされていく。そのための礼拝堂なのだと。
六日の「聖書朗読と黙想」では、ルカ二一章の「終末の徴」の段落が心に深く響きました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し……わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証をする機会となる。……どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(ルカ21・12~15)。
「これは使徒言行録のペトロに起こったことじゃないか!」と思いました。主イエスはそのままをあらかじめ約束されていたのです。
「イエスの名」で足の不自由な男を癒したことを咎められ、牢にぶち込まれ、「もうイエスの名を語るな!」と脅されても、「神に従わないであながたがに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と堂々と「イエスの名」を証し続けるペトロとヨハネ。「無学で普通の人」と揶揄された二人を「イエスの名」が立ち上がらせ歩ませていくのです。この世界の中で私たちを真に立ち上がらせていく力を、今朝も聖書から受けていきたいのです。