先週の講演会「ジャーナリストが見た中東のいま」(講師:新田義貴兄)では、現地に実際に足を運び、人々と顔と顔を合わせて同じ食卓を囲んだ人でなければ語れない、体温を持った言葉がダイレクトに伝わってきて、わたしの心に小さな穴が開けられたような思いを味わいました。多様な価値観に生きる民族同士がどうしたら共存に向けて道を拓いていけるのか。厳しい現実の中にあって、それでも希望をたずさえ歩んでいる人々の存在に力づけられました。
一方、パレスチナの和平成立を困難にし、多くの人の血を流し続ける原因となっている「原理主義」の頑なな姿勢に、絶望に近いものを感じざるをえませんでした。「聖書に記された神の約束は絶対であり、パレスチナの土地は自分たちのもの」という主張から一ミリも動こうとしない。二千年前、主イエスに憎しみをぶつけ十字架へと追いやったのも、この「原理主義」だったのでしょう。
主イエスは、当時のイスラエルの人々が聖書を教条的に解釈し、人と人との間に造り上げていた壁を、軽々と乗り越えてゆかれた方でした。イスラエルの人々が決して付き合おうとしなかった異教徒たちとも交流を持っている様子が福音書には記録されています。ところが、その主イエスがなぜか「イスラエル民族主義的」な振る舞いをしているのが、マタイ15章の「カナンの女」とのやり取りです。主イエスは異教徒であるカナンの女の願いを三度も冷たく退けるのですが、最後に一転して彼女の信仰を称えていきます。ある人は「ここではイエスがどこか喜んで負けているように見える。『一本取られたね、わたしの負けだよ』とでも言っているかのようだ」と評しました。主イエスの「負け」をあえて語っている聖書の面白さを見るのです。