新しいぶどう酒   加藤 誠

先日、第四回東日本大震災国際神学シンポジウムが開かれました。今回のテーマは「キリストさんと呼ばれて―この時代、この地でキリスト者であること」。まもなく五年を迎える東北の被災地で、被災した人々からクリスチャンが「キリストさん」と呼ばれる関係が生まれている。その関係が指し示しているものの意味を考えてみようという会でした。主題講演や協議を通して心に残ったのは「新しいぶどう酒」としてキリストの存在です。わたしたちに「喜び」をもたらし、わたしたちの「革袋」(わたしたちの関係)をまったく新しくする「ぶどう酒」としてのキリスト。例えば、ある牧師の次の文章が示しているような、何も持っていないわたしたちの間に立ち続けるキリストの存在です。

 

「『なにもかもなくなったんだぁ』と家を流されたおばあさんが呟いた。…叫びながら流されていく家族、友人をただ見つめるしかなかった人たち。一人ひとりを訪問し必要なものを聞き、用意ができる限り持っていく。目の前にいる苦しみ痛む人々への直接支援は、共にいることしかない。訪問した家での出来事である。『あんたら何持ってんのか?』と聞かれた。『何も持ってません。だけど必要なものがあればできる範囲でそろえます』と答えた。『おら何にもいらねえ。ただあんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさんしょってからな』と言われた。私たちは何も持っていなくても、キリストを持っているということを教えられた瞬間だった。神さまから派遣されることの深みを教えられた。何もできないけれど、キリストがここに立っておられる。そのキリストが被災者に寄り添っておられる。そこに、み言葉がある。『となりびと』は『寄り添いびと』である。」(『説教黙想アレテイヤ』特別増刊号「危機に聴くみ言葉」)