福音書には、なぜこんな話がわざわざ載っているのか、頭をひねらざるを得ないエピソードが所々に出てきますが、マタイ16章の「パン」と「パン種」を巡る主イエスと弟子たちとの「かみ合わない会話」もその一つです。長い間、わたしにとっても謎でしたが、もしかしたら…と思えてきたことがあります。それは、五千人と四千人の供食の奇跡を二度も目の当たりにしながら、その奇跡に示された恵みを「わたしのための恵み」として体験していない弟子たちの問題です。彼らは、供食の奇跡を自分の目で見たわけですが、彼ら自身が「腹をすかせ、疲れ果て、それでも主イエスが語る言葉に期待して家に帰ろうとしない群衆」と同じ立場に立って、主イエスの恵みを実体験できていなかったのです。恵みの傍観者にすぎなかった。そこに彼らの問題がありました。
神の恵みは、どんなに間近で見ることができたとしても、それを「わたしのための恵み」と受けて体験しない限りはその喜びと平安を味わうことができません。それは次の文章が語っているとおりです。
「あることについて知ることと、あることを知ることとはちがう。母親は、分娩についての知識は医者におよばないが、分娩がどういうことかを、その苦しみ、哀しみ、喜びを通して、肌で知っているはずである。おなじことはイエスの福音についてもいえる。イエスを知ることと、イエスについて知ることとはちがう。神の愛を知ることと、神の愛について知ることとはちがう。どんなに聖書を勉強し、またどんなにイエスについての知識が豊富でも、イエスを知らなければ、けっして全身が喜びと平和で満たされる感動を味わうことはない。」(井上洋治『新約聖書のイエス像』より)