巻頭言「ともし火は燭台の上に」加藤 誠

 先週の礼拝では主イエスが「あなたがたは世の光/地の塩である」(マタイ5・13~14)と語りかけたのは、さまざまな病気を抱えて、その日を生きるのに精いっぱいの人たちであったことを聴きました。その人たちを主イエスは、「塩」のようになくてならない貴重な存在、世の中の歪みを正す働きをする存在、山の上の家々の「光」のように、夜の暗さの中を旅する人たちの目印となり元気を与える存在なのだと言われたのでした。

 主イエスは神さまからいただく命を精一杯に生きる一人ひとりを、心から大切に愛されました。だからこそ出会った人たちは主イエスを「人間を照らす光、恵みと真理に満ちた光、暗闇に打ち勝つ光」(ヨハネ一章)と証したのです。

 

 それらの言葉に続く「ともし火を燭台の上に置くように、あなたのともし火を人々の間に輝かせ…人々があなたがたの立派な行いを見て…」とはどういう意味なのでしょう。

 「ともし火」はイエス・キリストのことでしょう。わたしの中で光となり、わたしの暗くゆがんだ心を照らして恵みと真理に導くのはキリスト以外にないからです。わたしが自分の心を照らすキリストを人々の前で証ししていくと同時に、キリストに照らされた心をもって「あなたの隣人と出会っていきなさい」と励ましてくださっているのだと受け取ります。

 そうであるなら「立派な行い」とは人々が称賛するような行いというよりも主イエスの愛と恵みにふさわしい心をもって人々の間で生きていくことでしょう。キリストの光に照らされて、この礼拝から人々の間に出かけていく力を今朝も聖書から受けていきましょう。