巻頭言『矢印は「外向き」 ~出かけていきなさい~』加藤 誠

 十月から「教会」について聖書に聴いています。「これ」を失ったら教会でなくなってしまうものは何なのか。今朝はその一つである「教会の矢印の向き」について聴き、考えてみたいのです。

 復活の主は弟子たちに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われて、聖霊の息吹を吹きかけられました。

 隣り人/世界に向けて遣わされる。教会の矢印は「外向き」。この「矢印」を見失うなら、教会は「主イエスの教会」ではなくなってしまいます。

 

 ルカ福音書六章の「幸いと不幸」の言葉は、教会の「矢印」について貴重な示唆を与えてくれる箇所です。ここで主イエスは「満腹している人、笑っている人は不幸だ」と言われていますが、その前に「飢えている人は満腹になり、泣いている人は笑うようになる」と言われていますから、満腹や笑顔そのものが「不幸だ」と言われているわけでない。むしろ主イエスはみんな満腹になり、笑顔になることを祈り願っておられる。

 では何が「不幸」なのでしょうか。英語訳聖書では「Woe」。「なんて悲しく、寂しいのか!」という意味です。ルカ十二章の「愚かな金持ち」は思いがけない豊作で大きな富を得た時に「これは俺だけのものだ!」と喜びますが、その姿を神は「なんて悲しく、寂しい生き方か!」と嘆かれた。「神からのいただきもの」を「自分だけの矢印」で終わらせてしまっていたからです。主イエスが弟子たちを招かれたのは「隣り人に向かう矢印」の中で「神からのいただきもの」をどう用いることができるだろうかと祈っていく生き方。

 ここに主イエスが祈り願われた「教会の矢印の向き」が示されています。