巻頭言「祈る喜び」~スチュワードシップ②~ 加藤 誠

 イエス・キリストの信仰において「祈り」は不可欠です。「祈り」なしに信仰は成り立ちません。「祈り」は「神とのつながり」だからです。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ福音書15・4)。

 主イエスは「インマヌエルの主」としてどんな時にも私たちと共にいてくださいます。主イエスが私たちを見捨てることはありません。ただ、どんなに主イエスがつながってくださっていても、私たちがつながろうとしないなら私たちは「実を結ぶことができない」=「神の愛を生きることができない」のです。.

 主イエスを見ていて不思議に思うことがあります。「神の独り子」なら祈らなくても神と一心同体で歩めたはずなのに、なぜあんなに「祈り」を必要とされたのだろうか…と。

 主イエスは宣教を前に「ひとりで祈る時」を大切にし(マルコ1・35、マタイ14・13、23)、大切な決断に際して必ず祈られました(ゲッセマネの祈り)。今日生きて働かれる神の恵みを両手いっぱいに受けて分かち合うために祈り(五千人の供食)、弱くて頼りない弟子たちのために祈りを尽くし(最後の晩餐)、自分に唾を吐きかける者たちのために祈られました(十字架上で)。

 教会は、この主イエスから聖霊の息吹を吹きかけられ、主イエスにしっかりつながり、この世界を生きるように招かれています。

 今朝この「祈りの喜び」を聖書からいただいていきましょう。