巻頭言「平和の主はろばに乗って」加藤 誠

 卓球の早田ひな選手が帰国会見で「鹿児島の特攻資料館に行きたい。生きていること、そして自分が卓球をできていることが当たり前じゃないということを感じたいなと思う」と語ったことがさまざまな波紋を呼びました。

 わたしはぜひ行ってみて欲しいと思った方です。わたしが鹿児島の「知覧特攻平和会館」を訪ねたのは約二十年前のことですが、今でもその記憶がはっきりと心に刻まれています。私たちの普段の会話から七九年前の戦争のことがほとんど語られなくなった時代に、あの戦争の時代を生きた人びとの記録に触れて、自分を重ね、感じ、自分のこととして考えることは大切ではないでしょうか。特に「特攻」という愚かな死に方を「美化」して若者たちに「強いた」私たちの国はどこで何を間違えたのかを考える視点は必要だと思います。先日放映された「~一億特攻への道~隊員四千人人生と死の記録」(NHK)では、全国の町々に隊員の「供出」が割り当てられ、学校の校長が生徒に「志願」を強く迫り、その「出征」に際しては町をあげて若者を「神鷹」「軍神」とたたえて送り出した経緯があったことを知りました。

 「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように」(詩編85・9)。

 ユダヤの人たちは、自分たちが神の前に犯した「愚かさ」を何百年にもわたって語り継ぎ続けました。人間は「愚かさ」を繰り返すものだからです。

 その私たちを「真の平和」に導くため、イエス・キリストは「平和の主」としてろばに乗って来られました(ゼカリヤ9・9)。「平和の主」が今日の私たちに語りかけておられることを繰り返し聞いていきたいのです。