ある国の指導者が「自分は神に選ばれた者だ」と語ったり、敵対する国を「悪魔呼ばわり」したり。自分たちを「神の側」、敵を「悪魔の側」と決めつけるところに戦争は生まれます。戦争のための「神利用」、いやもっと正確に言うなら自らの権力を強めるための「神利用」。そうやって「神の力」を手にした指導者が、「悪魔に対する敵対心」をあおって人びとの心を支配し、愚かな戦争の悲惨に駆り立てていくのです。
イザヤが生きた時代も「神利用」という点では同じようなものでしたが、そのような中でイザヤが取り次いだ「主なる神」の言葉は驚くべきものでした。
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(イザヤ45・7)。
この言葉は、人びとの「信仰」を根底から揺さぶったことだろうと思います。ふつうは「神は光や平和をつくり、悪魔が闇と災いをつくる」と二元論的な説明の方が分かりやすいからです。けれどもバビロン捕囚の苦難を通して、イザヤは気づかされていったのでしょう。自分たちを苦しめ、捕囚にしたり、あるいはこのあとイスラエルを解放するキュロス王(ペルシャ)という異邦人たちの背後に、すべての造り主なる神が働かれていることを。
異邦人たちを悪魔と安易に同定しない。
自分たちを神の民と安易に同定しない。
自分たちの罪を正しく裁き、「敵」に見える異邦人をも用いて、私たちを愛と平和に導かれる主の自在な働きを見つめ、畏敬をもって礼拝していく。
私たちの小さな「神概念」をはるかに超えて、大きく自在に働かれる「主なる神」を共に賛美する信仰に、イザヤは人びとを熱く招いたのでした。