巻頭言「御名を知らせる」加藤 誠

 先週、大井教会壮年会から「神学生への祈りと献金を!」のプリントが配布されました。連盟の三つの神学校(西南、東京、九州)の働きと、そこで学ぶ神学生を覚えて「祈り、ささげよう」というアピールです。その最後は「大井教会から、主の召命を受け、献身者として立ち上がる人が現れることを皆で願い、祈りましょう」という言葉で結ばれていました。

 「献身」は特別な誰かほかの人のことがらではありません。大井教会のことがらであり、私たち自身のことがらであることを覚えたいのです。

 バプテスト教会は今から約四百年前、英国の国教会から「離脱」した人びとによって誕生しました。彼らはバプテスマの恵みにあずかった者の責務を次のように告白しています(『第一ロンドン信仰告白』四一項)。

 「この礼典(バプテスマ)を受けるように、キリストによって導かれている者に対して、聖書は彼らが宣教する弟子となることを要求している。これは特別な教会と役員、あるいは特別な人に要求されているのではなく、キリストの委託は弟子たる者すべてに与えられているものに他ならない。」

 それゆえ、初期のバプテスト教会はバプテスマを受けたばかりの教会員に「按手」を施しました。生まれたてのクリスチャンもキリストの弟子として、御言葉を宣教し牧会を担う責務があること、その責務を聖霊の導きを受けて良く担うことができるようにと、教会は祈りを合わせたのです。

 その教会の祈りに先立って、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」(ヨハネ17・26)と語り、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(同19)と祈られているキリストがおられます。この祈りは大井教会の私たちにも注がれているのです。