巻頭言「闇の中の光、イエス」加藤 誠


 福音書には、主イエスが死んだ人間をよみがえらせた場面が記されています。指導者の娘(マタイ九章)、やもめの一人息子(ルカ七章)、そしてラザロ(ヨハネ十一章)です。その中で「ラザロの復活」はひと際大きな衝撃を人々に与えました。墓に葬られて四日も経ち「もう臭くなっている」状態からの「よみがえり」だったからです。イエスという男が起こした大いなる奇跡に熱狂する人々を目の当たりにした指導者たちは、イエス殺害の意を固めていきます。

 ただヨハネ福音書は「イエスは偉大な奇跡を行うメシア」という称賛で終わらせずに、「イエスはどのようなメシアなのか」を丁寧に展開していきます。

 一つは「主イエスは、人の願いを叶えるメシアではなく、神の栄光に仕えるメシアである」ということです。ヨハネ福音書の主イエスは「神の時」を重視します。主イエスは「自分が親しくしている人の願いだから」という理由では動きません。「神の時」が明確に示されるまでじっと待つのです。

 二つ目は「人間の闇を照らす、世の光として来られたメシア」ということです。主イエスが神の子の栄光をあらわせばあらわすほど、人々はイエスを憎み、敵対心を募らせていきます。自分の闇に気づき、光であるイエスを受け入れた人は「つまづく」ことがありませんが、自分の闇を認めず、光であるイエスを拒否する人は昼間に歩いても「つまづく」のです。

 しかし「死んだ者」「もう臭くなっている者」を墓の中から呼び出し、神の命に向かって「生きる者」とするために、主イエスは来てくださいました。

 さて、この「もう臭くなっている者」とはいったい誰のことでしょうか。