この光に照らし出されて 加藤 誠

先主日、教会学校教師養成講座の最後のクラスがありました。
「人生の中でこんなに勉強したことはない。これまで自分のための勉強はしたことはあったが、学んだことを誰かに伝えるということがどれほど大変なことかを思い知らされた」、「聖書のメッセージを自分の言葉にするために、一週間、家事をしたり子どもと向かい合いながら、寝ても覚めても聖書のことを考えて過ごす毎日。大変だったけれど、とても濃い一週間だった」。受講生たちのそんな感想を受けて、最後に講師がこう結びました。「教師になるとは、教えることではない。教わること。教師はただ一人、イエス・キリスト」。

教会学校のクラスは、調べてきた“うんちく”を披露する場ではありません。一人ひとりが聖書と向かい合い、日々の生活を通して主イエスから学んだ喜び・厳しさ・希望を分かち合う場です。特に教師として立つことは骨の折れる奉仕ですが、これほど自分が耕され成長させられる奉仕はありません。

「生まれつきの盲人」と主イエスとの出会い(ヨハネ9章)。「目が見えていなかった時も、目が見えた今も、わたしはわたしです!」(9・9意訳)という告白にこの人を立てていった主イエスのまなざし。この話にもう一度学びます。
「神の業がこの人の上に現れるため…わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない…わたしは、世にいる間、世の光である」(9・3~5)。主イエスは世を照らす光です。その光は、目が見えていようがいまいが「その人をその人として生かす神の愛」を私たちに照らし出します。しかし、その光を阻み、暗闇に閉じ込めようとする働きを残念ながら人間は毎日生み出している。私たち教会は、そんな自らの暗闇としっかり対峙していく働きを託されていることを覚えたいのです。