2025年10月19日 第二礼拝 スチュワードシップ「奉仕」
説教題『実り』ローマの信徒への手紙8章22~28節
広木 愛(野方キリスト教会)
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)
この9月、9年ぶりに、ルワンダを訪れることができました。ウブムエの発送が大井教会で行われていることを聞き、ルワンダで起きている神様の希望の、平和の光が大井教会経由で日本全国の教会、また支援者へと届けられていること、嬉しく、また感謝な思いです。
前回、ルワンダを訪問させてもらった時にも思ったことですが、1994年のジェノサイドの生存被害者の方たち、ジェノサイドの加害に加わった人たち、またその家族の人たちは、佐々木さんが連れてくるムズング(肌の色が違う)私たちに、当時のことや、今思っていること、素直に分かち合ってくれるのはなぜだろう。そして私たちの失礼な質問にも、誠実に耳を傾けてくれ、その質問に丁寧に答えてくださるのはなぜなのか。信頼関係のない私たちにも、深い痛みを、また神様の希望を語ってくれるのは何故だろうと思わされています。佐々木和之さん、恵さんを通して出会うルワンダの人たちが、初めて会う人にも躊躇することなく、その痛みを、祈りを、分かち合ってくれるのは、信仰があるから・・でも、ただ優しいいい人なのでも、なく、和之さん、恵さんの20年間の働きの実りであると思っています。
和之さん・恵さんのルワンダの人たちと接している姿を見ると、大学で平和学を教えている研究者と対象者という関係でもなく、キリスト者として、助けてあげる人、助けてもらう存在という関係性でもなく、一人一人と、友人、それ以上に、一つの命の存在を大切に、出会おうとするその姿勢があると思います。そしてそこから積み重なった20年間の関わりが、あの「佐々木さんたちが連れてくる人たちだから、大丈夫」と思ってくださり、平和の大切さ、ジェノサイドの悲惨さ、自分たちの痛みを分かち合ってくださるのだろうと思っています。アフリカの小さい国小さい交わりの中に、聖書が語る神の国が確実に広がっている、神の国を先取りする空間があると思わされます。
支援する人、される人、奉仕する人、される人、教えてあげる人、教えてもらう人、支配する人、される人、あれかこれかの関係から、一緒にその命の時間を、そして祈りを分かち合っている場所がルワンダに生まれているということを、今回訪問させていただいた、ウムチョ・ニャンザの女性たちを通してより感じることができました。
スチュワードシップ月間「奉仕」は、歯を食いしばって、主のためだ!クリスチャンの義務だ!と思いながら必死に行うものではないと思っています。主のためなのだから誰かが犠牲になったっていいじゃないかという思いの奉仕は弟子たちと一緒に生きたイエスさまの姿からほど遠くに感じます。
パウロは、このように語ります。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」
奉仕できる人、ユダヤ人、キリスト者・・・というよりも、どんな人でも、生きるってしんどいんだって、みんな生きている中でそれを実感している。でも、私たちは、神の希望をもらっている。みんなで生きあっていることがわたしたちの共通点だと思っています。信仰者のつながりといっていいのかもしれません。
漠然と救われているから大丈夫ということかもしれませんが、うめきながらも、一緒に祈って、生きる人たちがいるということは、大きな励ましです。あの十字架のイエス・キリストは、あなたと一緒にいる、だってインマヌエル、神、共にいるって約束してくれているのだから、そのほかの希望が目に見えなくたって、神が共にいるって、実感できなくても、よくわからないけど神は一緒にいるのだと信じてみる!そうすると、何か別の世界が見えてくる、誰か別の隣人が与えられる、だから、うめきながらも、生みの苦しみを受けることができるのです。
ウムチョ・ニャンザの女性たちの姿をみて、生存被害者、加害者家族、その次の世代の人たちのそれぞれの葛藤の中で、苦しみながらも一緒に生きている姿。それは神様の国がまさに私たちの世界に突入してきているように思います。
私たちの奉仕が、教会の利益、バプテスマが1年間に何十人、何百人になっていないから、無駄だ、足りない・・目に見えるもので評価されるのではなくて、そこに神様が見せてくれる希望を私たちが受け取れること、ルワンダでいただいた希望は、ジェノサイドの生存被害者も、加害に加わった人も、その家族も、ジェノサイドを知らない次の世代の人たちも、誰もが大切にされ、当たり前のように生きていい、生きることを、お互いが喜べる世界の到来。それが私たちの奉仕への結果の「利益」になるのだと思わされます。
野方教会は、15年以上祈り続けていた会堂建築が今ようやく、あと一歩、手に届くところまでやってきました。46年間の教会の歩みの一つの実りがようやく花開きそうです。建物という目にみえるものを評価するのではなく、新しい礼拝堂でどのような人たちとどのように生きあうかを、今、問われているところです。野方教会が目に見えない神様の実りを喜ぶことができるように、大井教会の皆さんのお祈りに加えていただければと思います。