説教題「ヨブの問い、神の答え」ヨブ記 42 章I~6 節、ローマ書 5 章 5~8 節

2023年11月19日 召天者記念礼拝

説教題「ヨブの問い、神の答え」ヨブ記 42 章I~6 節、ローマ書 5 章 5~8 節 主任牧師 加藤 誠

「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロ ーマ信徒への手紙5章8節)

人生において「命の誕生と死」の出来事は、私たちが命の厳粛さと向かい合わされ、 それぞれ自分に命が与えられている意味を思い巡らす者とされる大切な場面です。

ある映画の一シーンを思い出します。老齢の男性二人が癌の闘病を通して出会い、 残り少なくなった人生の時間で「ぜひやってみたいこと」に取り組むのです。その旅 の途中で夕陽を見ながら一人が相方に尋ねます。「君は人生を楽しむことができたか い?」。相方は「あぁもちろん」と答えます。「もう一つ、君の人生は誰かの喜びに なったかい?」。この問いに相方は黙ってしまいました。彼の心に棘のように刺さり 痛みとなっている事柄があったからです。が、そう尋ねた男も、実は長い間、心に抱 えながらも向かい合うことを避けてきた課題がありました。旅から戻った二人はそれ ぞれの「宿題」に取り組みます。正確には、一人は「宿題」と取り組み和解に導かれ ますが、もう一人は「宿題」と取り組もうとした矢先に倒れて息を引き取ります。

わたしはこの映画のシーンを想うたびに、神は「与えられた人生を大いに喜び、エ ンジョイするよう」に私たちを招くと同時に、「自分だけの喜びでなく、誰かの笑顔 のために尽くすよう」に招いておられることを示されます。

新約聖書の主イエスのたとえ話に「愚かな金持ちのたとえ」(ルカ 12 章)がありま す。大きな農場を持つ金持ちの畑が豊作になり、大喜びした金持ちは新しい大きな倉 庫を建てながら自分に向かってこう言います。「これから先何年も生きる貯えができ た。食べて飲んで楽しもう!」と。その晩、神は「愚かな者よ!」という叱責と共に 彼の命を取り上げられたという話です。この男の「愚かさ」。それはこの男が「すべ ては神から与えられ、託されたもの」という厳粛な事実を忘れて、すべてを「わたし の作物、わたしの財産、わたしの倉庫」と呼んで、「自分のもの!」と勘違いしてい た点でしょう。神は私たちにそれぞれ家族、友人、財産、才能など、いろいろな恵み を与えてくださっていますが、私たちはそれらを喜びエンジョイすると同時に、隣人 の喜びや世界の明日のために差し出していくよう招かれているのです。私たちは神か らの恵みを感謝しつつ、同時に「わたしは何を神のために、また隣人のために差し出 していくこと」ができるのか。神がわたしに託された「宿題」は何なのだろうかを神 に尋ね、思い巡らし考えるように招かれているのです。

旧約聖書にヨブという人がいます。この人も財産に恵まれ、家族にも恵まれた人で した。しかしある時、ヨブは愛する家族を失い、財産も失い、さらに重い皮膚病に悩 まされるようになり、とうとう神に向かって叫び始めます。「神さま、わたしはこれ

だけの災いと苦しみを与えられるほどの悪を働いたでしょうか。納得がいきません。 なぜなのですか?」と。ヨブは裕福でいた時にはずっと気づかなかった、世界を覆う 数々の不条理の現実に目を開かれ、「神さま、あなたの愛と正しさはいったいどこに あるのですか?どうしてこんなにも不条理の苦難が放置されているのですか?」と問 う者となります。友人たちはヨブに「神さまの正しさを疑い、批判するなんて不信仰 だ」と咎めるのですが、わたしはむしろヨブが「信仰に目覚めた」からこそ「神に問 い始めた」と受け取ります。ヨブは「神の愛と正しさを求めてやまない信仰者の一人」 として神に問うているのです。以前までは「自分と家族の幸いを喜ぶだけ」の礼拝で 終わっていたヨブが、世界中で不条理に苦しんでいる人々と自分とのつながりを覚え ながら神を礼拝する者に変えられた。つまり、自分だけの幸いだけでなく、人々の幸 いを願いつつ、「自分に託された宿題は何だろう?」と神に尋ねながら、思い巡らし 考える者に変えられたヨブを、そこに見るのです。

そのヨブに対して聖書は「二つの答え」を示します。「一つ」はヨブ記の最後で、 神ご自身がヨブを叱責する形で示された答えです。「すべてのものを創造し、一つひ とつの命を不思議の中に存在させているわたしの、いったい何をお前は知っていると いうのか!」。つまり「神はすべてのすべて」であり「義人を滅ぼし悪人を栄えさせ ても、神は神なのだ!」と宣言されたのでした。この神の答えは、私たち人間の理解 を超えています。納得できるものではありません。しかし、神という方は私たちが「納 得できる論理」の中に押し込められる方ではない。そういう意味で、信仰とは神につ いての知識を得ることでも、納得することでもありません。命の誕生においても、死 においても、わたしには「不条理で、納得できない!」と叫ばざるを得ない出来事の 中にも「神は神である!」と宣言されている。人間は「私たちの思いをはるかに超え て働かれる神」の前にひれ伏し、礼拝する信仰を受けていくよう招かれている。これ が旧約聖書のヨブ記の答えです。

同時に聖書は「もう一つ」の答えを新約聖書において示します。イエス・キリスト という答えです。「神さま、あなたの愛と正しさはいったいどこにあるのですか?」 と問うヨブへの答えとして、神はイエス・キリストを送ってくださいました。「あな たは不条理あふれる世界のどこに神がいるのかと思うだろう。しかし、わたしはあな たたちのただ中にインマヌエルの神として共に歩んでいる。あなたたちの苦悩と悲し みを共に受けて歩んでいる」と。そして「神さま、どうしてこの世界にはこんなにも 人の悪があふれているのですか?」と問う私たちへの答えとして、「罪人を救うため に命をささげられた十字架の主」を示されたのです。私たちの「納得」をはるかに超 えた神の答えがここにあります。「希望は私たちを欺くことはありません。…私たち が罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は わたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:5,8)。この神の答えを大切 に受けていきたいのです。