試される神   加藤 誠

先月の第二礼拝では毎週証し者が立てられ、「祈り、ささげる」という課題をそれぞれに考え、深める機会を与えられたことを感謝します。どの方の証しにも、その背後に「教会の交わり」があること、「ひとり」ではなく一緒に聖書を読み、祈り、礼拝をささげる「信仰の友」があることを感じました。信仰の先輩の後ろ姿を通して、あるいは小さな子どもたちの素直な信仰を通して、わたしたちはどれだけたくさんの気づきや励ましを受けていることでしょうか。教会という交わりにつなげられ、キリストのからだを共に形づくる恵みに招かれている幸いを覚えます。

 

今月からは、旧約聖書と新約聖書に登場する、さまざまな人物たちの信仰の格闘を通して、引き続き「祈り、ささげる」というテーマを深めていきたいと願っています。

今朝はアブラハムに学びます。イスラエルの「信仰の父」と呼ばれた人物です。聖書の人々は皆、「かつてアブラハムに生きて働き、関わり続けた神が、今わたしに語りかけておられる」という信仰に呼び出されてきました。

神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、「あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの山に登り、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という神の言葉が突然、アブラハムの心臓をえぐる刃物のように向けられます(創世記22・1以下)。神は、わたしたち一人ひとりの「一番大切なもの」を試される方です。「わたしたちの生き方が、いったいどこに向かうものであるか」、そして「わたしたちの存在そのものが、いったい何によって支えられているか」をはっきりさせるために。神は、試される方なのです。