「イエス・キリストとは、どういう方か?」と問われたら、「言動一致。言葉と行動が一致していた方」と答えることができるでしょう。つまり「神と人との前で語った言葉を、その通り実践された方」、それが主イエスです。
「山上の説教」(マタイ5~7章)を語った主イエスは、山を下りて人々が暮らす町中に入って行かれます。ガリラヤ湖を見わたせる丘は、人々にとって主イエスの話を静かに集中して聴くにふさわしい場所だったことでしょう。しかし、いつまでも静かな丘にとどまっていることはできません。わたしたちは、日常のさまざまな問題があふれ、わずらわしい人間関係に悩まされる現実を生きていかなければならないからです。そして、人々だけでなく主イエスもまた山を下りて世俗の暮らしの中に進んでいかれます。主イエスは「インマヌエル」、わたしたちの生活のただ中を共に歩む神であり、神の言葉は、苦悩の中にあるわたしたちを生かす言葉だからです。
その主イエスの前にローマ軍の百人隊長がやって来て「部下の病気を癒してほしい」と頭を下げ、「ただ、一言おっしゃってください。あなたの言葉をいただけたら、それで十分です」と言いました。主イエスはその言葉に大いに感心し、隊長の部下は癒されていきます(8・5以下)。
「言葉だけで十分です」。わたしたちの周りを見わたす時、言葉の大切さ、重さというものが何と軽くなってしまっていることでしょうか。一度口から発せられた言葉が簡単に反故にされる。言葉に対する無責任さがあふれています。その逆に、見える証拠を求め、確実な物証がないと言葉だけでは信用できない。最初から疑ってかかる、寂しい関係があります。「言葉だけで十分です」。信頼から生まれる命の豊かさを、聖書から受けていきたいのです。