主イエスはその宣教開始にあたり「主がわたしを遣わされたのは…目の見えない人に視力の回復を告げ…主の恵みの年を告げるため」(ルカ4・18~19)と宣言し、実際に目の見えない人を癒されました。また「偽善者たちよ、まず自分の目から丸太を取り除け」(マタイ7・5)、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(同6・22~23)と言って、わたしたちがまず「見えていない自分」を認める澄んだ目を持ち、神の深い慈しみに目を開かれて生きる道を示されました。さらにゲッセマネの祈りの場面では「わたしと共に目を覚ましていなさい」。「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(同26・38、41)と、わたしたちが自らの弱さを自覚し、祈りにおいて神の語りかけに常に心を開いていく大切さを弟子たちに熱く語られました。
主イエスはわたしたちに「見えるようになること」を求めておられます。わたしたちは主イエスが第一にされた神の愛、一緒に生きるよう招かれている隣人の存在が見えているでしょうか。自分への愛で心がいっぱいで、痛んでいる友の傍らを通り過ぎていないでしょうか。自らの正当化にこだわるばかりに、友の真意を誤解し勝手に断罪していないでしょうか。ほんとうは自分が取り組むべき課題であるのに、他人ごとのように見過ごしていないでしょうか。自分が称賛を受けることが第一の関心となり、わたしたちの間にあって十字架を担い、わたしたちの罪を引き受けてくださっている主イエスの姿を見失っていないでしょうか。この受難節、わたしたちのために十字架に向かって歩まれた主の姿を見える者にされ、そのあとに従う者とされたいのです。