私たちの間を吹き抜ける風 加藤 誠

 シカルの井戸で、主イエスがサマリアの女性に水を求め、会話を交わしている姿は弟子たちを驚愕させました(ヨハネ4・27)。ユダヤ教の教師が公衆の面前で女性と二人だけで対話する、しかもユダヤ教から異端と蔑視されていたサマリア人と。それはユダヤ人の常識に照らして決してありえないことでした。しかし、人間がこだわる常識の「境界線」を主イエスは軽々と越えて一人の女性と出会っていきます。二人は、人と人として対等に、率直に言葉を交わしながら、「ほんとうの礼拝とは何か?」という深いテーマに肉薄していくのです。
わたしはこの主イエスに、「思いのままに自由自在に私たちの間を吹き抜けていく風」(3・7)の働きを見ます。その風は、あらゆる囚われ、差別・偏見から私たちを解放し、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り行動する者へと私たちを導いていきます。

今日はちょうど「命(ぬち)どぅ宝の日」(6月23日)。凄惨な沖縄戦をくぐり抜け、かろうじて生き残った人々にとって、この日は掛け替えのない尊い命を感謝し喜びあうと共に、命を抑圧し、傷つけ破壊する、あらゆる力に対して「否」を言い抜いていく日だと饒平名長秀(よへな・ちょうしゅう)牧師は語ります。「口先だけで平和を唱え戦争反対を叫ぶことはそう難しいことではない。自戒を込めてだが、平和を実現する(マタイ5・9)行動を伴っているかどうかが問われるのだ。…主イエスは命への圧迫と危機に悩む者、苦しむ者に関わり、共に重荷を負い苦しまれた。そのような主の御苦しみにあずかることを通してはじめて私たちはキリスト者として形成されていくのだ」(『沖縄バプテスト』2008年9月1日)。その昔、ガリラヤを吹き抜けた風は、今日、私たちをどこに向けて持ち運ぼうとしているのでしょうか。