迫害者サウロの回心は、キリスト教会に大きな波紋を生みます。サウロをそのまま仲間として受け入れてよいものかどうか。疑心と憎しみが飛び交い、教会の中は揺れます。が、その揺さぶりを通して、教会は自分たちの交わりの基礎が「十字架のキリスト」にあることを学んでいきます。「十字架のキリスト」が受け入れる者を、教会が拒むわけにはいかないのです。
続く使徒言行録10章の「コルネリウス事件」に再び教会は大きく揺さぶられます。ユダヤ教の伝統に深く根を下ろしていた初期のキリスト教徒たちは、異国人との交際に消極的でした。ユダヤ教の律法が異国人と食卓を共に囲むことを禁じていたからです。幼いころから体にしみこんだ習慣を百八十度変えることは大きな勇気と決断を要します。しかしペトロはペンテコステに自分たちが体験した聖霊事件が異国人の上に起こされるのを目の当たりにし、「神は人を分け隔てせず、どの国の人でも神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられている!」という新しい確信に導かれます。それまで絶対的存在だった律法をペトロが福音のもとで解釈する自由を体験し、キリスト教がユダヤ教から脱皮した瞬間でした。教会がキリストの福音を手中にすることはできません。キリストの福音が教会を揺さぶり、耕し、変革していくのです。
今朝の礼拝では敬老感謝のときをもちます。大井教会が多くの信仰の先輩方をいただいていることは何と幸いなことでしょうか。齢を重ねることは「外なる人」の衰えを体験することですが、「内なる人」は日々新たにされていくのです(Ⅱコリント4・16)。その約束を一緒に見上げながら、日々福音によって変革され続けていく教会でありたいと願います。