福音の「当事者」とされていく 加藤 誠

 ペンテコステは、それまで暗い部屋の中に閉じこもっていた弟子たちが、その扉を開けて外に出て、「あの十字架で殺されたイエスこそ、キリスト(救い主)だ」と、はっきり語り始めた日です。
 それは聖霊によって引き起こされた事件でした。
 弟子たち自身の勇敢さとか知恵では決して語りえなかった言葉が、神の思いである聖霊によって注ぎ込まれ、神の息吹である聖霊が彼らを立ちあがらせ、扉の外の世界へと彼らを引き出していきました。聖霊によって立ちあがらせられ、世界に向けて派遣されることを通して、「教会」は建てられていったのです。
 ですから、クリスチャンが百人集まって礼拝を捧げたとしても、自分が満たされ、気持ちよくなって終わる礼拝であるなら、その集まりは「教会」とは呼ばれません。一人ひとりが賛美を携えて、「あの十字架で殺されたイエスこそ、キリストだ」という告白をもって、この世界に派遣されていくとき、「教会」とされていくからです。
 またペンテコステ前の弟子たちは主イエスに「お任せ」の福音宣教でした。「右か左か」、「語るべきか、行動すべきか」。あらゆる判断は主イエスに「お任せ」。神の前に自分の弱さをさらけ出し、血の汗をしたたらせて祈る主イエスの傍らで居眠りをし、いざとなったら身を隠して自分を守る…。それが弟子たちの姿でした。
けれども、ペンテコステにおいて、彼ら自身が福音の「当事者」とされていきます。この世界で信仰をもって生きる、さまざまな厳しさを自分で引き受け、聖霊の助けを尋ね求めながら、必死に祈り、決断していく。そのように彼らが福音の「当事者」として立てられていった時、弟子たちの歩みは試行錯誤でありながらも、復活の主の証人として豊かに用いられていったのでした。