聖書が語る「信仰」とはどういうものなのでしょうか。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11・1)。
ここで「望んでいる事柄」と訳されているのは、端的には「神の約束」を指します。つまり、「信仰とは『神の約束』を信頼して、目には見えない『神の国』(神の愛の支配)の事実を見ていくこと」。言い換えれば、「イエス・キリストが約束された神の愛を信頼して生きること」となるでしょうか。
「約束」は言葉だけのもの。まだ手には入っていないし、目で確かめられないもの。約束してくれた人が信頼できる人なら信じて待つことができるけれど、その人が信頼できないなら期待できないし、当てにできない。約束してくれた人の信頼度がものをいうのです。
私たちの身の回りには「約束」を巡るトラブルのなんと多いことか。それは「信頼」を巡るトラブルと言ってもいい。信頼している人から裏切られるとダメージは大きい。でも逆に、わたしが約束に応えきれず、相手を失望させてしまっていることも多いのです。真実でありたいけれど、真実たりえない、私たちの現実があります。
「ヘブライ人への手紙」は、イエス・キリストという方は真実な大祭司であり、私たち人間の弱さを身に負いながら、私たちと神との間に立ち、執り成し続けてくださる方だと紹介します。この方の真実と出会う時、私たちは不真実があふれている世界にあって、神の国の約束を信頼して生きる力を与えられていくのです。