神の憐れみにふさわしく   加藤 誠

先週のペンテコステ礼拝は霊的な恵みあふれる礼拝となりました。大谷レニー先生による「聖霊の賜物」のプログラムは、聖歌隊と会衆の賛美とが響きあい、礼拝堂全体が一つに高められる深い感動を覚えました。礼拝後、感想を聞きながら、わたしはいくつかの理由を思いめぐらしました。

一つは、指揮をされたレニー先生、聖歌隊、奏楽者の事前準備と祈りの積み重ねです。よく整えられていて、会衆賛美が自然に引き出され高められました。

もう一つは、会衆一人ひとりの礼拝への集中です。これまで一緒に礼拝をささげてきた信仰の先輩を次々に天に送り、「いつもの席にいない友」を覚えながら、各々が深い祈りをもってその日の礼拝に集っていたと思うのです。

礼拝は、会衆と奉仕者、一人ひとりの祈りによって創られます。そこに聖霊が豊かに働いてくださるようにと祈りつつ、最善を整えて、よく準備して臨む。一回一回の礼拝に臨むわたし自身の祈りの姿勢を問われます。

 

長期計画委員会で現在の主日のあり方を考える会話の中で「礼拝だけにじっくり浸れる主日でありたい」という主旨の言葉がありました。さまざまな奉仕で疲れを覚えたり、なかなか礼拝に集中できないという現実からの言葉でしょう。わかる気がします。その一方で考えたのは、「礼拝は、受け身では成り立たないのでは?」ということです。コンサートのように、誰かが素晴らしい礼拝を用意してくれていて、自分は観客席に座るだけという礼拝はありません。礼拝は、一人ひとりの礼拝者の祈りによって創られるものであり、礼拝者であるわたしの姿勢が、まず問われる。「神の憐れみにふさわしい礼拝」(ローマ12・1)をささげていく、日々の祈りを大切にしたいのです。