神の愛にある自由 加藤 誠

国立国会図書館の壁には「真理はわれらを自由にする」という言葉が刻まれています。戦後、国会図書館設立に尽力した羽仁五郎参議院議員がドイツ留学中に出会った大学の銘文に由来し、その銘文はヨハネ福音書8章32節「真理はあなたたちを自由にする」に由来すると説明されています。「従来の政治が真理に基づかなかった結果、悲惨な状況に陥った」ことの反省から、一握りの国会議員だけでなく、国民だれもが豊かな知識と知恵を持つことで民主主義が成立し、われわれを自由に導くということなのでしょう。

世界のどの国でも、政治権力者が情報操作によって国民世論を誘導しようとすることを考える時(イラク戦争しかり、福島原発事故しかり)、国民一人ひとりがあらゆる情報に自由にアクセスできることは大切です。しかし、わたしたちを自由にするのは、豊かな知識と知恵なのでしょうか。そもそもヨハネ福音書8章が語る自由とは、どのような自由なのでしょうか。

主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。主イエスの言葉に「とどまる」とは、その言葉がその人のうちに「根をおろす」(口語訳8・37)ことであり、「ぶどうの木につながる」(15・5)ことです。形だけでなく、そこに生き生きとした交わりが成立し、行き来が起こっていることです。主イエスの言葉が知識で終わるのでなく、実際の行動に移される中で、「もう罪を犯してはいけない」(8・11)=「神の愛にしっかりとつながって、そこから離れてはいけない」という御言葉の真理が、一人ひとりのからだに浸みこんでいくことです。そのとき「神の愛にある自由」が「罪の奴隷」状態に陥っている私たちを解放していくのです。