神の前に「退く」スチュワードシップの学び①   加藤 誠

 今日から「スチュワードシップの学び」に取り組みます。

 「スチュワード」とは、新約聖書の「管理者」の英語訳で、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」(第一コリント4・1)、「神から授かったさまざまな賜物、恵みの善い管理者」(第一ペトロ4・10)などと使われている言葉です。

 英語の「スチュワード」は「執事、家令、管財人」を意味し、「主人の大きな信頼のもとで財産管理を任された者」です。執事はある場面では主人になり代わってその財産を使うことが任されますが、勘違いしてならないのは、いくら自由に財産管理を委ねられていても、その財産は主人のものであって、決して執事のものではないということです。ですから、その財産管理が主人の意にかない、主人を喜ばせるものであるかどうかを常に問われるのです。

 さて今朝は「スチュワードシップ」としての「祈り」を考えるに際して、主イエスの「祈り」の姿に聴きたいと思います。主イエスの生き方は最初から最後まで「神へのスチュワードシップ」に貫かれていました。わたしたちの場合は「自分が楽しく自分らしく生きるために、神さまに〇〇を願い祈る」ことが多いのに対して、主イエスの生き方は「神から与えられた命、賜物、チャンスを、神のため隣人のためにどう使うか」という視点で貫かれていました。福音書を開くと主イエスは常に「ひとりで」祈っています。どんなに忙しくて、どんなに疲れていても「神と一対一で向かい合う時間」を大切にされました。

 「イエスは…ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6・15)。ここで「山に退き」祈る主イエスの姿は今朝、私たちに何を語りかけているでしょうか。