神の与える服  加藤 誠 

波乱万丈の「ヨセフ物語」は、いよいよ前半のクライマックスを迎えます。エジプトのファラオの夢を解き明かしたヨセフは、総理大臣の地位に大抜擢され、見事な政治的手腕を発揮して未曽有の大飢饉から国を救うのです。

長い間、奴隷の服、囚人の服を着せられて塗炭をなめてきたヨセフが、今や亜麻布の服と金の首飾りを身につけて人々の前に立ち、「アブレク(敬礼)」と賛辞を受ける場面(創世記四一章)は、ある意味で痛快です。不条理な苦難に沈むことなく、神から与えられた才能をいかんなく発揮してチャンスをものにしていく姿に快哉を叫びたくなりますし、エジプト人から見たら異国人の、元奴隷であり囚人でもある、どこの馬の骨か分からない男を総理大臣に大抜擢していくファラオの懐の大きな英断には感心させられます。

けれどもそれらは「目に見えるところ」で起こっている出来事にすぎません。神がヨセフに与えた真の使命において、今日の場面はまだ「はじまり」にすぎないのです。ヨセフの心の奥底に沈んでいる「家族との和解」という大きな課題。明るく、どんな人にも誠実に対するヨセフの姿を見ていると、深い心の葛藤を抱えているようにはとても見えないのですが、実はヨセフは自分の力では解決できない深い痛みと悲しみ、憎しみを抱えていたのでした(創世記42・24以下、43・30以下など)。そして神は「家族との和解に向かい合う」という真の使命に向けてヨセフをさらに訓練し導いていかれるのです。

そのように「目に見えないところ」で起こっていることに目を注ぐ時、神が私たちに求めておられるのは、外側にどんな服を着るかではなく、心にどんな装いを整えるかであることを示されます。キリスト者にとってそれは「キリストを着る」(ガラテヤ3・27)という課題と重なるのではないでしょうか。