神の下にある権威   加藤 誠

 キリスト者はこの世の「権威」に対してどう向かい合うのか。

この問いに対して、「ローマの信徒への手紙」十三章は昔から議論を呼んできた箇所であり、例えば新共同訳は次のように訳しています。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13・1)。

 これをそのまま読むと「国家、学校、会社など、この世の権威はすべて神による権威なのだから従順に従うべきだ」という教えになりますが、本田哲郎神父は「これら従来の翻訳は大きな誤解を与える翻訳ミスである」と厳しく指摘し、次のように訳し直しています。

「人はみな、すぐれた権威には従うべきです。じつに、神の下にあるのでなければ、それは権威ではありません。神の下にあってこそ、権威として命令を出せるものだからです」(本田哲郎『パウロの書簡』)

 つまり本田神父は、「神の下にある権威」には従うべきだが、この世の権威のすべてが自動的に神の下にあるわけではない。私たちは「神の下にある権威」であるかどうかをきちんと識別していかなければならないと言います。

 例えば、主イエスご自身は「神の国と神の義」を第一に選び取られたゆえに、当時のユダヤ社会の律法学者たちの権威を否定し、大祭司カイアファ、王ヘロデ、総督ピラトなどの権威もことごとく否定されましたし、ペトロら弟子たちも、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(使徒4・20)と語り、大祭司などユダヤの最高議会の脅しに屈することがありませんでした。明日の「信教の自由を守る日」を前に、改めて聖書の語るところに聴きたいのです。