神につながり、世界につながる   加藤 誠

今週18日(水)から教会の暦で「受難節」(レント)に入ります。バプテスト教会は教会歴から自由なので、「受難週」(イースター直前の一週間)は知っていても「受難節」(イースター前の日曜日を除いた四十日間)はあまりなじみのないという人が多いようです。
わたし自身も「受難節」を知ったのは大学四年のとき、フランスにある共同体「ラルシュ」(「箱舟」)でこの時期を過ごした時です。「ラルシュ」は「障がい」者が一緒に暮らす「家」形式の共同体ですが、「受難節」の間はカトリックの習慣にそって金曜の夕食はスープとパンだけの粗食にし、ローソクの灯を囲みながら、この世界で苦難の中にある人々を覚える時間を過ごしていました。わたしは「障がい」のある仲間六人を含めて十二人が暮らす「棕櫚(しゅろ)」と名付けられた家で約三か月を共にしました。ドミニクという仲間は「そんなことやったって世界の人が助かるわけじゃないし…」と自分だけ別の夕食メニューを食べていたのですが、黒縁メガネのその真面目な問いかけの表情と、ローソクの明かりに照らし出された夕食の光景が今も心に刻まれています。
わたしたちが「神につながる」とか「世界につながる」とはどういうことでしょうか。それは簡単なことではありません。「そんなの見せかけの嘘っぱちじゃないか」と言われたらグーの音もでない、実に頼りないものです。口で言っていることと腹で考えていることが一致しない、なんと情けない存在かと思います。十字架に向かう主イエスの覚悟を三度聞いても「これらのことが何も分からなかった」(ルカ18・34)と言う、ほんとうに鈍い弟子たちです。けれども、主イエスはそういう者たちを近くに呼び寄せて、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と今日も招かれるのです。