ユダヤ教のラビであるH・クシュナーは「神が応答される祈り」について、こう語っています。
「私たちは神に、人生からいっさいの問題を取り去ってくださいと祈ることはできません。そんなことは起こるはずもなく、人生は以前のままの人生であり続けます。自分や愛する人は病気にならないようにとも祈れません。神にはそのようなことはできないからです。また、災難が自分を素通りして他の人のところに行くように、魔法の呪文を唱えるように頼むこともできません。……しかし、耐えがたい困難を耐える力を求め、失ったものではなく残されたものに心を向ける勇気を求める祈りは、かなえられることが多いのです。そのような祈りをする時、人は考えていた以上の力や勇気を自分の中に見いだします。何がそうさせるのか。彼らの祈りがそのような力を見出す助けとなっていると、わたしは考えたいのです。祈りが、それまで隠れていた信仰と勇気を呼びさます助けになったのです。」(『ふたたび勇気をいだいて』より要約)
ヤコブはその若き日、兄の長子の権利をだまし取って激怒を買い、家を出て行かざるを得なくなった時、「神さまが守って下さったら、わたしはあなたを信じ、十分の一をささげます」と、神の祝福を買い取るかのような「取引き」の祈りをします(創世記28章)。約二十年後、父の家にふたたび帰るに際してヤコブは、「兄が恐ろしいのです…ただ、あなたが共にいてください」と祈ります(同32章)。「お願い」に変わりありませんが、もはや「取引き」ではありません。自分が神に差し出せるものはないと、自らの弱さと貧しさを認めつつ、直面する現実に向かい合えるようにと助けを祈るのです。この祈りを通してヤコブは兄エサウとの和解を体験し、神の憐れみを学んでいったのでした。