神が導く救いの不思議   加藤 誠

この夏の二か月間、創世記の「ヨセフ物語」に聴いていきます。

ヨセフは「お坊ちゃま」育ちの若者でした。十二人兄弟の十一番目でありながら、父ヤコブの四人の妻のうち最愛のラケルから最初に生まれたという理由で破格の寵愛を受けたヨセフは、兄たちにもまれて鍛えられることなく周りから大事にされて当然の環境で育ちます。ヨセフは「兄さんたちの麦の束が、僕の麦の束にひれ伏す夢を見たよ」と語ることがどれだけ兄たちの反発と怒りを生むことになるかを想像できない、無邪気で無神経な「お坊ちゃま」でした。

ある日、とうとう兄たちの憎悪が爆発しヨセフは奴隷として売られます。「野獣に襲われて死にました」という兄たちの嘘の報告を聞き、悲しみに打ちのめされる父ヤコブ。ヤコブの家には家族を養うだけの十分な財産はあったものの、家族の間に信頼と安らぎは成立していなかったのでした。

父ヤコブの未熟、ヨセフの未熟、そして兄たちの未熟。

それでも、人の未熟が生んだ悲劇の崩壊が、最終的に神による和解に導かれていくのですから、神が導く救いはただただ不思議というほかありません。

 

ところで、目の前の出来事と格闘するような日々を過ごすさなかに、ふと「この格闘の先に何があるのだろう?」という問いが心をよぎることはないでしょうか。最終的に何か形あるものに結実したならば「自分の格闘にも意味があった」と納得できますが、時には「あれだけ力を注いだ日々は何だったのだろう?」と空しさに打ちのめされることも人生には起こる。そのような時に、私たちが自分の「ものさし」で人生の意味を測ろうとする限界と愚かさを示されます。むしろ聖書はわたしたちに、各々の人生にほんとうの意味を与えてくださる神に、委ねるべきは委ね、従っていく信仰を指し示すのです。