牧師は、人の誕生、結婚、死など、人生のさまざまな場面に関わらせていただきます。もっともそれは牧師個人の働きではなく教会の働きであって、牧師は教会の人々の代表として、それらの場面に立ち会わせていただくのです。
病室で、礼拝堂で、家庭の居間で、火葬場で。喜びあふれる場面もあれば、ぶつけようのない悲しみに押しつぶされそうな場面もある。それらの場面での牧師の働きを「司式」とか「牧会」と表現しますが、その中心は「礼拝に導く」ことと理解します。つまり「この出来事の中に一緒に歩んでおられる神の救いを示しつつ、当事者たちが心を神に向けて新しい一歩を神と共に歩み出せるように支える」ことです。「聖書を開いて、祈り、神の語りかけに聴く」「一緒に讃美をささげる」。まさに主日ごとにささげている礼拝が、各人の生活の出来事となるよう導く。そのような「司式」や「牧会」を通して、実は牧師自身が聖書に深く養われ、福音の慰めを受ける経験をさせていただきます。
わたしたちは危機的な状況に遭遇すると、「神よ、あなたはどこにおられるのですか?」と問います。けれども、その暗闇において、神はイエス・キリストにおいてすでにわたしたちと共にあり、語りかけておられる。「わたしはここに、あなたと共にいる。だから、立ち上がり、歩き出しなさい」と。キリストの恵みは常にわたしたちに先立っているゆえに、わたしたちは人生のどのような場面においても、なお神を礼拝することができるのです。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、ほんとうに重要なことを見分けられるように」(フィリピの信徒への手紙1・10)。