熊本地震の被害状況が判明するに従い、その被害の大きさと深刻さに胸が痛みます。17日の日曜日、自分たちの礼拝堂が全壊したため、隣町の教会の礼拝に出席した人々のことを聞きました。連盟の東熊本教会では六名が何とか集まり、賛美と祈りを合わせ、崩落した礼拝堂内部の片づけをしたと聞きました。災害の渦中や救助活動の最中では思うようにはいきませんが、どんなに短時間でも手を休めて共に神の前に出て礼拝をささげることはとても大切なことです。わたし自身、22年前の阪神淡路大震災で教会が避難所になった混乱の中、水曜夜に車座になって祈りを合わせた祈祷会の光景と、サイレンとヘリコプターの音が響く礼拝堂で守った主日礼拝の光景は、今でも鮮明に心に焼き付いています。伴奏なしで歌った讃美歌が心にしみました。
災害以外でも、わたしたちの人生はさまざまな嵐に襲われ、大きく揺さぶられることが起こります。けれども、わたしたちはその嵐に支配されるのではない。わたしたちは「主なる神の御手の中」にあるからです。その主なる神の前に共に礼拝をささげる時、わたしたちは「天来の力」を受けます。「今日を賛美して生きる力」と「隣人につながる力」を受けるのです。
使徒パウロは、耐えられないほどの圧迫を受けて生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた時、「自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった」と語っています(第二コリント1・9)。この「死者を復活させてくださる神」は直訳すると「死者を起こす神」です。
現実的に厳しい時こそ、礼拝を大切にしたいのです。その礼拝がわたしたちを立つべきところに立たせ、顔をあげるべきところに向けさせてくれます。