教会の土台   加藤 誠

「新しい礼拝堂の建築」という大きなチャレンジをいただいている私たちです。それは数十年に一度しか巡ってこない、一人のクリスチャンが生涯に一度経験できるかどうかの大きなチャレンジですが、このチャレンジを「貴重なチャンス」として大切に受けていきたいのです。

新礼拝堂建築委員を担っているあるメンバーが立候補の時に語った言葉を鮮明に覚えています。「大井教会に来る前、他教会で新礼拝堂建築した時にはほとんど受け身で何もできなかった。今回の大井教会の礼拝堂建築はそうしたくない。少しでも自分の信仰のことがらとなるように関わりたい」と。

新礼拝堂建築という「大事業」に関わるということ以上に、この取り組みを通して、礼拝に向かうわたし自身の、そして教会の信仰が聖書を通して「新しく」されたなら、どれほど素敵なことでしょうか。

 

第一コリント三章で使徒パウロはコリント教会の人々に「あなたがたは神の畑、神の神殿」であり「その土台はイエス・キリストだ」と語りかけています。興味深いのは、「かの日」(終末の審判時)には、土台の上に建てたわたしたちの働きは火によって吟味され焼かれてしまうのだけれども、しかし「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(15節)という言葉です。わたしたちの新礼拝堂建築という「大事業」も、最終的には灰になってしまう「人の業」だということでしょう。建築が即「神の栄光」ではないのです。しかし、どんなに火で焼かれたとしても、共に働く者を「神の畑、神の神殿」として建てていくキリストの恵み(土台)は残り続けるのであり、わたしたち人間の働きを教会に建て続けていく神の大きな憐れみを覚え続けたいのです。