捕えられて、立つ   加藤 誠

使徒パウロは地中海沿岸諸国での異邦人伝道に情熱を注ぎ、その働きによって新しい教会が次々に誕生しました。が、彼の伝道がいつも「華やかな成功」に彩られていたわけでは決してありません。
人びとの猛反発に会い、リンチを受けて逃げ出したこともあれば、どれだけ熱く語っても空振りに終わり、徒労感に打ちひしがれたこともありました。コリントに向かう旅では、「衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安だった」とパウロ自身が述懐しています。足取り軽やかに青空がまぶしく見えた日もあれば、溜息と共に空の雲が重く見えてしかたない日もあったことでしょう。
そのパウロの心を支え続けたもの。それは「自分がキリストを捕える前に、キリストに捕えられ」(フィリピ3・12)、「神を知るというより、神に知られている」(第一コリント8・2、ガラテヤ4・9)という感覚だったようです。
自分がどれほど伝道に頑張って「キリストを捕えた!」と思っても、それはキリストの恵みのごく一部にすぎない。どんなに「神を知った、分かった!」と思っても、それは神の愛のごく一部にすぎない。逆に、まるごと「キリストに捕えられ、神に知られている自分なのだ」という感覚です。

私たちは「神に知られ、キリストに捕えられている」。すべては神にお見通し、すっかり知られているのに、私たちはそれを認めようとしない。創世記のアダムとエバが神から姿を隠せていると思っても、実は神にまる見えであったように。神を信じるとは、表も裏もすべて神に知られている自分を認めること。「神様、あなたはすべてご存知で、何も隠すことができません。信仰貧しき者を救ってください」と、神の恩寵の懐にある自分を認めることなのです。