悪より救い出(いだ)したまえ    加藤 誠

「主の祈り」の第六の祈りは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。ここで「試み」と訳されているギリシャ語(ペイラスモス)には「試練」と「誘惑」の二つの意味があり、聖書でも両方の意味で用いられています。

「試練/誘惑」は人間を神から引き離します。例えば聖書は「神は愛である」と宣言していますが、この世の現実はとても神の愛を感じることのできない苦難や矛盾、不合理な出来事で満ちているので、わたしたちは神の愛を信じることの虚しさを感じ、現実的な力(富や権力)に心を奪われます。
また「試練/誘惑」は人間の内にある欲望と結びついて、うずき出し、人を引っ張りまわします(ヤコブ1・14以下)。空腹が人を犯罪に駆り立てることがあれば、満腹がさらなる貪欲にそそのかす場合もあります。どんなに鍛えた身体も意志も、人間が肉体をもつ以上、「試練/誘惑」の前には弱いものでしかありません。「試練/誘惑」をあなどることほど危険なことはないのです。

主イエスは、人間が「試練/誘惑」の前にいかに弱く、もろい存在であるかをご存知でした。ご自身もまた肉体をもって生き、「試練/誘惑」の厳しさを経験されたからです。その究極の「試練/誘惑」は十字架でした。
「イエス自身、試練/誘惑に苦しまれたからこそ、試練/誘惑にある者を助けることができるのである」(ヘブライ2・18私訳)。
「わたしは試練に対しても誘惑に対しても弱く、無力な者」という自覚をもって神の前に座ること。「あなたの苦闘をわたしも知っている」と一緒に座って祈っておられる主イエスを感じながら、「主の祈り」を祈りたいのです。