阪神淡路大震災のあと、毎年「1・17」が巡ってくるたびに、「言葉にすること・伝えること・共有することの難しさ」をいつも考えさせられました。
一口に「震災」と言っても、一人ひとりの人生にとっての意味や衝撃はさまざまです。言葉にしようとしても、ほんとうの自分の思いを上手に言葉にできるわけではないし、言葉では表現しようもない苦しみや痛みというものがある。呆然と立ち尽くすだけ、涙があふれるのをこらえるだけ、そのようにしか反応できない思いというものがある。あるいは、決して口には出せずに、その人の心の中に封印されていく思いというものもあるはずなのです。ですから、わたしたちは語られた言葉をそのまま響かせ、分からないことは分からないまま、沈黙には沈黙をもって向かい合う。そこに限界をもった人間としての慎みが求められているように思います。
それら言葉にならないわたしたちの思い、呻き、沈黙のすべてを十字架のイエス・キリストが受け止め、神に執りなしてくださっている。引き裂かれた現実のただ中に、神ご自身が和解の希望に向けて働いてくださっている。これが聖書の福音であり、十字架はそのしるしです。
先日の「3・11」を前に、南三陸町のトンネル開通のニュースを聞きました。津波で被災した地域の道路がつながり、人の行き来が可能になるトンネルの貫通。このトンネルの先は「必ずつながっている!」という知らせは大きな希望です。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。「道」となってくださったイエス・キリストに神の真理はあらわされ、この「道」を通してわたしたちは神の命につなげられていくのです。