復活の主がおこし給う「炭火」   加藤 誠

復活した主イエスと出会った弟子たちは180度の大転換をしていきますが、興味深いのは「たった一回の復活体験で劇的な大転換が起こったわけではない」という点です。三福音書は「復活体験」をしてもなお「疑う者がいた」(マタイ)、「恐ろしかった」、「信じなかった」(マルコ)、「暗い顔をして」「恐れおののいた」(ルカ)弟子たちの姿を描いています。ヨハネ福音書の場合には、20章で感動的な復活の主との再会をしながら、なぜか21章では故郷のティベリアス湖に戻って漁をしている弟子たちを描きます。彼らは復活の主と出会ってもまだ「自分たちは何をすべきなのか」を理解できず、結局はエルサレムから逃げて故郷に舞い戻り「漁でもしようか」とフラフラしていたということなのでしょうか。しかし、復活の主は弟子たちを逃げっぱなしでは終わらせません。

 

「炭火が起こしてあった」(ヨハネ21・9)。

この「炭火」という言葉は、十字架の直前、ペトロが「あの人の弟子ではない」と否認した時、彼の顔を照らし出した「炭火」と同じです(福音書にはこの二箇所のみ)。かつてペトロの裏切りを照らし出した「炭火」(18・18)が、ここでは「さあ来て、朝の食事をしなさい」と彼らの冷え切った身体を温め、食事を提供する「炭火」となります。裏切りから新しい使命へ。弟子たちは自分たちの裏切りが、復活の主の深い赦しに包まれる経験を幾度も重ねる中で、「主は生きて働き給う」との信仰を強められていったのです。