「人の思い」か「神の御心」か。両者はしばしば真っ向から衝突します。そして私たちはその狭間で葛藤し、悩み、ため息をつきながら天を仰ぎます。
エフェソ教会の人たちは「パウロのエルサレム行き」に泣きながら反対しました。投獄と死の危険が待ち受けていることを感じていたからです。パウロも「エフェソ教会の人たちとはもう二度と会えないだろう」と覚悟していました。
ところが、パウロは「わたしは、霊に促されて(=縛られて)、エルサレムに行く」(使徒20・22)と語るのです。聖霊に「縛られて」とは「自分の思いとは違う方向に」ということでしょう。パウロを突き動かしていたのは、主イエスから託された「任務」の自覚でした。「神の恵みの福音を力強く証しする」。この「任務」に心の焦点を合わせた時、パウロは聖霊に「縛られて」、エルサレム行きという決断に導かれていきます。
マルコ福音書でも主イエスがエルサレムに向かって先頭に立って歩まれるのを見て、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(マルコ10・32)とあります。また主イエスご自身もいよいよ十字架が目の前に迫る中で「ひどく恐れてもだえ始め」(同14・33)ています。
神の御心を前にしたとき、私たちは恐れるのです。「恐れを感じず、悩みもしない」としたら、それは神の御心ではない可能性が高い。神に従おうとするとき、私たちは恐れるのです。私たち自身の力では一歩が踏み出せない。それゆえ聖霊の助けと神の恵みの言葉を求めましょう。神の恵みの言葉は私たちを造り上げ、恵みを受け継ぐ者としてくれるからです(使徒20・32)。