クリスマスを待ち望む「待降節」(アドベント)をまもなく迎えます。このとき、改めて「待つ」とはどういうことだろうと思いめぐらしています。
使徒言行録は「父の約束されたものを待ちなさい」(1・4)という復活の主イエスの言葉で始まっています。その言葉を受けた弟子たちは「一つのところに集まり、共に祈りつつ」、約束が実現するのを待ちました。いったい何が起こるのか、まったく見当もつかない中で。
もし彼らが自分の家に帰り、それぞれに時を過ごしていたら、ペンテコステの出来事はあれだけ力強いものになっていたでしょうか。彼らがバラバラではなく「共に」待ち、祈っていたゆえに、彼らは「教会」として建てられ、「新しい扉」を開けて世界に出かけていく、ダイナミックな働きが可能になったのではないでしょうか。
また「父の約束」は、直後の聖霊降臨の出来事だけと結びつけられがちですが、その後の使徒言行録のすべてを通して「父の約束」、つまり「聖霊により、彼らがイエスの証人となる約束」が次々に弟子たちの上に実現していきます。しかも「彼らが心に思い浮かびもしなかった新しい出来事」として。そういう意味で使徒言行録は「父の約束の前進の物語」なのです。
「待つ」という時、何を待つかで「待ち方」がずいぶん違ってきます。例えば合否の判定や裁判の判決を待つ場合は不安や恐れとの闘いが伴いますが、私たちを愛してやまない神の約束の実現を待つ場合、それは私たちの歩みを喜びと慰めに導く、確かで良き約束なのであって、不安や恐れにさいなまれる必要はないのです。良き知らせを「共に」待つ信仰をいただいていきましょう。