巻頭言『私たちの「矢印」はどこに?』加藤誠

 大谷レニー先生の足跡と働きを覚えつつ、この一か月間、先生を送ってくださった主なる神に感謝と賛美をささげる時を共にできたことを感謝します。

 レニー先生個人をほめたたえるのではなく、レニー先生を通して働かれた神の恵みに目を注いで「神賛美」を共にささげる礼拝としたい。プロジェクトチームの祈りはそこにありました。東京バプテスト神学校の教会音楽科をはじめ、多くの教会の方々がこの礼拝を覚えて祈り、つながり、ささげてくださり、共に「神賛美」をささげる大きな恵みの体験となりました。丁寧な準備を重ね、良きチームワークで働きを担ったプロジェクトチーム、さまざまな奉仕を、見えないところでささげてくださった一人ひとりに感謝します。

 レニー先生は「矢印の人」でした。レニー先生を思い起こす時、十字架のキリストにあらわされた神の愛と恵みを指し示す「矢印」がくっきりと浮かび上がってきます。その意味で、私たち一人ひとりの「矢印」は、また教会としての「矢印」はどこを指し示しているかを問われます。

 エジプトから導き出されたイスラエルの民はシナイの山のふもとで、主なる神から語りかけられます。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19・6)。「祭司」とは何か。祭司の働きとは、この世界の中でどんな時も礼拝をささげ続けること。朝に夕に祈りのともし火を灯し、世界を覚えて執り成し、天に向かって賛美をささげることでしょう。その際、祭司。の要件は「罪人の一人である」という自覚と、「自分に何かできるとしたら、それは神の恵みである」という告白に歩むことです。さて、私たちの「矢印」はどこに向けられているでしょうか。しっかり点検したいのです。