巻頭言『希望の「矢印」』加藤誠

今日から教会の暦でアドベント(待降節)を迎えます。この季節にイースターの聖書箇所は奇妙かもしれませんが、先々週ルワンダで和解と平和の働きに仕えている佐々木和之さん・恵さんの報告を聞き、先週は鳥栖教会の野中宏樹牧師のメッセージを受けて、改めて主イエスが私たちの間に生まれてくださった意味を思い巡らす中で、強くこの箇所を示されました。

 十字架の後、暗い部屋に閉じこもる弟子たちに復活の主はこう語りかけます。「聖霊を受けよ。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす。あなたがたが赦すなら罪は赦され、赦さないなら罪は残る」。「この場面で赦さないなら罪は残るなんて、キツイ言葉だなぁ」と思ってきました。でも佐々木さんのメッセージで、主イエスは「赦さなねばならない」と無理強いしてはいないことに気づかされました。深く打ちのめされた弟子たちが赦しに立ち上がる難しさは主ご自身がご存知であり、だから「聖霊を受けよ」と言われたのです。「人が人を赦すことは難しい。神の愛なしに私たちは何もできない。だから聖霊を求めていこう。赦しは義務ではなく神が与えてくださる恵みなのだ」。

 佐々木恵さんは、虐殺の被害者と加害者の家族が寄り添い一緒に歩むウムチョ・ニャンザの働きを通して、二十八年前の大虐殺で深い傷を負い苦しんできた一人の女性が主イエスの癒しにあずかり新しい命を歩み始めている証しを語られました。二十数年間彼女を苦しめてきた過酷な重荷を十字架の主の慈しみが解き放ち、彼女を今、新しい使命に生かしているのです。聖霊を受けたら「ただちに」赦しの奇跡が起こるわけではない。「二十数年かかっても諦めることなく」聖霊は神の愛を証し続け、私たちの間に癒しと赦しを起こしていく。

 ここにクリスマスの希望の「矢印」が確かに示されているのです。