巻頭言『人間が幸いに生きる「矢印」』加藤誠


 出エジプト記の中心、というより旧約聖書の中心である「十戒」。

 イスラエルの人々は、「奴隷の家」であるエジプトから救い出されて、主なる神との交わりに生きる道に招き入れられ、「十戒」を授かります。この「十戒」は、彼らが何から救い出されて、何に向かって生きてくのか。その「矢印」を指し示す大切なものでした。

 彼らは「十戒」が刻まれた二枚の石板を箱に収めて礼拝所の祭壇の奥に安置し、その日その日、主なる神の語りかけに心と体を向けて整える礼拝を大切にすることを学んでいきます。彼らの荒れ野の旅は、その礼拝によって支えられ、導かれたのでした。

 一方で、新約聖書に生きるキリスト者は、「十戒」ではなく主イエスの「十字架」を礼拝堂の真ん中に仰ぎ見て礼拝をささげます。主なる神と私たちとの間には、もはや「十戒」ではなく、主イエスの「十字架」のみしか存在しません。「十戒」が私たちを神に結び付けるのではなく、主イエスの「十字架」の恵みのみが私たちを神に結び付けるからです。

 それゆえ私たちキリスト者は「十戒」の一つ一つの戒めには束縛されないのですが、しかしながら主イエスがそうであったように「十戒」が指し示している「矢印」を大切に受けていきたいのです。つまり「主なる神を愛すること」、「自分自身を愛するように隣人を愛すること」。この「愛神愛隣」という生き方を指し示す「矢印」が「十戒」でありました。そして、この「愛神愛隣」こそ、人間が幸いに生きる「矢印」であり、主イエスがその生涯を通して大切にされた「矢印」だったのです。