巻頭言『しるしを求める信仰』加藤誠

 福音書に出てくる「しるし」という言葉は、イエスが神の子であることを示す「しるし」(奇跡、不思議、証拠)のことですが、主イエスは「しるしを求め、しるしを見て信じる信仰」を厳しく批判されています。

 たとえばイエスのしるしを見て信じた人たちのことを「イエスは信用されなかった」(ヨハネ2・24)し、病気で瀕死の息子の癒しを願う父親には「あなたがたは、しるしや不思議な業をみなければ決して信じない」(同4・48)と厳しく問いかけ、「しるしを見せよ」と迫る反対者たちには「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない」と応えておられます(マタイ12・38以下)。

 「しるしを求める」とは、「おまえさんが救い主かどうかは俺が判断する。俺の目にかなうメシアならば信じてやろう」ということでしょう。自分の救い主のイメージに合えば信じるけれど、合わなければ信じない。十字架で苦しむイエスに対して人々は「神の子なら十字架から降りてみよ」とののしりました(マタイ27・42)。主イエスの十字架においてこそ、神は罪にまみれた私たちに対する永遠の愛を示されたのに、私たち人間は誰一人として、その「最大の愛のしるし」を理解して受けることが出来なかったのです。

 「この手をわき腹に入れないと決して信じない」とごねたトマスに対し、主イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20・27、29)と語られました。神の愛は見えません。「わたしの願いにかなう神を求める信仰」ではなく、「十字架にあらわされた神の愛を信じる信仰」が求められているのです。