巻頭言『この神殿を壊してみよ』加藤真

 初初代教会は、イースターまでの六回の主日と四十日間を受難節と定め、洗礼志願者たちの修養と訓練の時としました。聖書で「四十」は、主イエスの荒れ野の試み(四十日)や出エジプトの荒れ野の旅(四十年)のように、神の使命にふさわしく「新しく生まれる準備の時」という意味があります。

 今年の受難節、新しい自分に変えられることを願い、日々聖書を開いていきたいのです。「去年のままの信仰」ではなく、新しい気づき、新しい祈り、十字架の主に従う「新しい信仰」をいただいてイースターを迎えたいと願います。

 さてカナの婚礼でユダヤ教の「清めの水」を不要とされた主イエスは、次にエルサレム神殿の境内で犠牲の動物を売り買いしていた人々を追い出し、やはりユダヤ教が大切にしてきた「動物の犠牲のささげもの」を不要とされたのでした。そして「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という、実に過激な言葉をぶつけます。エルサレム神殿はユダヤ教信仰の中心であり、神の臨在のしるしであり、「神殿なしには神礼拝は成り立たない!」とガチガチに思い込んでいた人々に、神礼拝の本質を問う問いを主イエスは敢えて挑戦的にぶつけられたのです。

 神を礼拝し、神の愛と恵みを受けて生きる。そのために無くてならないものは神殿という建物ではないし、おびただしい犠牲の動物でもない。もし主イエスから今「この礼拝堂を壊してみよ!」と言われたら、私たちは何と答えるのでしょうか。主イエスは問われます。「あなたの神礼拝の中心には何があるのか?」と。十字架の主、神の小羊であるイエスを通してのみ、私たちは神の永遠の愛を受け取り、祈りと賛美を神にささげることができるのです。