先月から大井教会の聖書日課は『詩編』に入った。
『詩編』には、さまざまな状況を生きる人びとの、さまざまな「祈り」が収められている。「感謝」や「賛美」「主告白」はもちろん、「嘆き」や「呻き」「叫び」、そして「正義」「報復」を願う祈りなど、「こんな祈りがゆるされるのか」とたじろぐような激しい言葉もある。その意味で『詩編』は「信仰の言葉で整えられた祈り」というよりも、人が生きる時に沸き起こる「神にぶつけざるをえない赤裸々な思い」が「祈り」として収められているのだ。
今日の礼拝で「敬老感謝の時」をもつにあたり、人生の年月を重ねた人びとがささげたと思われる祈りを『詩編』の中に尋ねてみた。
◆九十編「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」(三節)、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(一二節)。
◆四編「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。」(八節、九節)
◆三四編「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(九節)、「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」(一二節)。
◆四八編「後の代に語り伝えよ/この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と」(一四節、一五節)。