八月十五日の靖国神社を参拝する人々の様子をルポした新聞記事を興味深く読んだ。もうずいぶん前になるが、わたしもこれまで二度ほど八月十五日の靖国神社に出かけたことがある。旧大日本帝国の軍服に身を包んだ人たちが整然と隊列を組み、勇ましく軍歌を歌って行進する姿に交じって、家族連れや若い人の姿も年々増えているという。ルポでは、「国のために尊い命をささげた英霊を尊ばない国はおかしい」「天皇陛下も首相もぜひ参拝すべきだ」という言葉が紹介されていたが、追悼すべきは日本軍兵士だけでなく、戦禍に巻き込まれた一般市民、そして二千万人以上と言われるアジア諸国の戦争犠牲者すべてであろう。沖縄の「平和の礎」がそうであるように、戦争犠牲者に敵味方はない。まして殉死した兵士を「英霊」として神にしてはいけない。人は人。神の前に過ち多き人間が神格化されるところで、人間は序列化され、選別され、神が一人ひとりに与えたもう尊厳を平気で踏みにじる大きな罪を犯していく。
広島や長崎の原爆資料館をはじめ、戦争の惨劇を伝える資料館などにはなかなか自分から足を運ぶ気持ちになれないものがある。ある人が語っていたが、「見て、知ってしまうと、責任が問われるようで、なかなか足が向かない」と。そうだと思う。歴史にしても、自分自身の過去にしても、闇に覆われた部分を見つめ、向かい合うのはとても苦しく勇気のいること。できれば避けたいこと。
けれども聖書は「闇と死の陰から導き出し…青銅の扉を破る主」(詩編一〇七・一四以下)を語り、部屋の中にうずくまっていた弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけて立ち上がらせていく十字架と復活の主を証ししている。
この方の命の言葉を、今朝も受けていきたい。