先週の礼拝前の少年少女クラスで、次のような会話が交わされたそうです。
「沖縄ではたくさんの少年少女たちが戦争に駆り出されていった。もしその時の沖縄にいたら、女の子はひめゆり学徒隊の一人になっていたかもしれないし、男の子は…」と、リーダーが語りかけていると、中学一年の男子が「兵隊になっていたかも」と言葉を継いだそうです。その報告を聴きながら、小さな会話かもしれないけれど、自分に重ねて「平和」を考える交わりの中に、きっと神さまは「平和の種」をまいてくださったに違いない…と思いました。
沖縄では、沖縄戦の一年前に陸軍中野学校卒の将校が派遣されて少年兵による「郷土隊」が組織されました。十六才以下の少年たちに銃や爆弾の扱い方を教え、森の中でのゲリラ戦の訓練をし、捕虜になるよりも死を選べと手りゅう弾で自爆する方法が伝授されました。指導した二人の将校はいずれも二十二才。かっこよくて優しくて、戦争前には訓練の合間に勉強も教えてくれる、少年たち憧れの隊長だったそうです。しかしひとたび沖縄戦が始まると隊長の命令のもとで多くの少年兵たちが無残な死を遂げていきました。戦争がなければ、野山を駆け回って遊ぶ少年たちであり、心優しい青年であったであろう若者たちの人生は、「誰かが始めた戦争」によって大きく狂わされたのでした。
「誰かが始めた争いで、常緑の島は色を失くした。誰のための誰の戦争なのだろう。会いたい、帰りたい、話したい、笑いたい、そういくら繰り返そうと、誰かが始めた争いが、そのすべてを奪い去る」(仲間友佑さん「これから」より)。
戦争を始めた責任者たちがのうのうとしている中で、手に銃を持たされた兵士たちは「誰のための戦争なのか」分からずに命を落としていく。誰も責任をとれない悲惨をなぜ人間は繰り返すのでしょうか。愚かな私たちの間で十字架の主が語られる神の真実の愛の働きに、今朝も聴いていきたいのです。