巻頭言「約束の聖霊 加藤 誠 」

 共に集う礼拝を休止して早や二ヶ月。それぞれどのような主の日を過ごしておられるのだろう。「主日礼拝って、何だろう」。「自分はほんとうに礼拝を必要としているのか。果たしてクリスチャンと言えるのか」。「自分にとって大井教会とは何なのだろう」。これまで当たり前だったものを取り上げられて、「問い」と向かい合わされることは、滅多にない貴重な「恵みの時」かもしれない。

 「パソコンの前に座って礼拝をしていたら、家族が『教会って、こんなことしてるんだ…』と関心を示してくれている」。「教会の礼拝に誘うのはちょっと敷居が高いけれど、今は家族みんなでテレビの前で礼拝しています」など、インターネットでの礼拝に新しい可能性を見せてもらえたり、「やっぱり教会の礼拝に来ないと、インターネットではつまらない」、「みんなで集まらないと教会にならないよ」と、「共に集う」大切さを再確認させられることも貴重な体験だと思う。

 一方で「新礼拝堂建築はどうなるんだろう?」、「どうしたらよいのだろう?」、「神さまはいったい私たちにどうしなさいと言われているのか?」。このコロナ禍の中で、大井教会員の誰もがこの「問い」と向かい合わされているのではないか。「神さまの御心って、つくづくわからん」。自分の手の中に神の御心を収めることはできない私たちは、ただただ天を仰ぐほかない。

復活した主イエスを囲んで「この主イエスがいてくだされば、百人力。何も怖くない!」と意気込んでいた弟子たちの間から、主イエスが天に取り上げられていった時、弟子たちは呆然と天を見上げるほかなかった。が、何も持ち合わせていない自分たちの足りなさ、貧しさに直面する中で、彼らは「約束の聖霊」を待ち望み、祈る者に変えられていったのだ。