巻頭言「笑いの陰に流される涙を、主は」加藤誠


 現在の国政選挙の小選挙区制は「〇×クイズ」のようで、国民の多様な声を反映させる仕組みではない。ある候補者がこう語っているのを新聞で読んだ。「僕らが今の社会に感じている『生きづらさ』を争点にしようとしたけれど、多数派の人びとには顧みてもらえなかった。選挙期間中に当事者の声を聴く機会が増え、『なぜ政治はこの人たちの声を聞いてこなかったんだ』という思いがさらに強くなっている」。

 聖書はイスラエル民族中心の書物である。そのためイスラエルという「主流」から外れた「傍流」の人びとはほとんど顧みられることがない。創世記二一章の「ハガルとイシュマエル」の話はその一つだろう。しかしそうでありながらもこの二一章は、主なる神の慈しみは「傍流のひとり」にも確かに注がれていることを示している貴重な箇所であると思う。

 ここでは、神の祝福の実現(イサクの誕生)を目にして笑っているアブラハムとサラ夫妻の傍らで、ハガルとイシュマエルは「邪魔者扱い」されて荒れ野に追い出される。パンと水の入った革袋だけで追い出すとは「お前たちは死んでくれ」というに等しい。なんと自己中心で残酷な主人夫婦(アブラハムとサラ)であろうか。しかし、息子イシュマエルを灌木の下に寝かせて「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と声を上げて泣くハガルに、神は天の御使いを送られる。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神は子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかりと抱き締めてやりなさい」と。

 キリストの教会は、誰の声を聴いていくのか。「しっかりと抱き締めてやりなさい」という主なる神の声を共に聴いていく私たちでありたいと思う。